コシノ ヒロコさん ファッションデザイナー

2001年10月-月刊:介護ジャーナル掲載より

「デザイナーの仕事は私の天分」

日本が世界に誇る現代文化のひとつに、ファッションデザインがある。1970年代から次々と登場した日本人による独創的なデザインは、世界のモード界に衝撃的な影響を与えた。その先駆的な存在であるコシノ3姉妹の長女ヒロコさんは、殊に西洋と日本の伝統美を融合させたユニークな新素材を使う作品を世界に発信し続けている。40年以上もエネルギッシュに美を追求する一流の創作家に、仕事と人生への熱い思いを語っていただいた(当時64歳)。

◎個性豊かなデザイナー母娘

呉服商の祖父、テーラーの父、洋装店経営でデザイナーの母綾子さんという恵まれた環境に育ったコシノさんは、東京文化服装学院デザイン科在学中に、すでにさまざまな賞を獲得し、気鋭のデザイナーとして注目を浴びていた。「私たち姉妹は幼い頃から、将来は仕事を持って自分の人生を切り拓いていくのが当然のように育てられたんですよ」とコシノさんは、揺るぎない自信に裏打ちされた穏やかな口調で当時を振り返った。
全員が世界的なデザイナーとして活躍中のヒロコさん、ジュンコさん、ミチコさん姉妹だが、特に歳の近いジュンコさんとは強烈なライバル同士だったそうだ。「でもどんなに喧嘩をしようと、親が間に入って和解させることは決してありませんでした。そのような育て方をしたわけですね。横で黙ってクールに見ているという…」。
だが姉妹で同じ仕事に就いて成功するには、余程強い意志がなければやっていけない。母の厳しいながらも将来を見据えた賢明な子育ては、結果的には3姉妹の才能を十二分に開化させることになった。

「デザイナーでも全員個性が違いますね。母のデザインの発想の原点は私たち3人なんです。上の妹(ジュンコさん)は時代の先端の“見せる”要素の強い服作りをいち早く始めましたし、下の妹(ミチコさん)はテニスの選手だったので考え方も合理的で、スポーツの世界の中で発想するんです。私の場合は祖父の影響で3歳の頃から歌舞伎や文楽に親しんで、美の原点をそれら日本の古典芸能の中に見出してきたため、エレガントな表現が多いですね。今はさらに、日本の絵画や書をアート的なものの中に取り入れています」。

母の綾子さんとは逆に、意外にも「服を縫うのは大嫌いで」と、コシノさんは微笑した。子どもの頃から卓越した絵の才能のあったコシノさんは、学生時代に夏季講習のアシストを務める程デザイン画が上手で、憧れのピエール・カルダンが学院へ不意打ち的に訪れた時は、黒板に描いたデザイン画を誉められたというエピソードを持つ。そしてこの出来事によって、世界的なデザイナーになる夢が強烈に芽生えた。
やがて1964年に大阪の心斎橋にオートクチュールのアトリエを開いてから現在までの活躍はご存知の通りだが、そんなコシノさんにも“人生のターニング・ポイント”といえるさまざまな出来事があった。
「家庭を持っても仕事は自分の中の非常に大切な部分を占めていましたから、私生活が次第に破綻してギリギリの状態になった時も、仕事は自分の天分だと思って乗り越えられたんですね。またそうした困難に直面したからこそ、自分を冷静に見る目が養われたし、もし何事もなく順調で平凡な日々だったら、やはり一流のデザイナーにはなれなかったと思います。いろいろな苦しみがあったからこそ人間的にも成長し、今では少々のことにも動じなくなりましたね」。

◎シニアこそ美しく装って欲しい

昨年(2000年)11月に大阪府の依頼で、コシノさんは“ねんりんピック”での高齢者のデザイン・コンクールの審査委員長を務めた。「この時、“家族”をテーマに年代を超えて同じデザインの服を着るという、バリアフリー的な提案をして、ショーも好評でした」。
コシノさんは、お年寄り用の服という発想自体がおかしいという。つまり問題はサイズだけで、若者とお年寄りを区別する考えはデザインの思想にはないそうだ。「私の店は全国に約200店舗あり、若い人も70代の方もたくさん訪れます。ヒロコ・コシノBISというセカンドブランドも約90店のデパートにあり、うちがデザイナーズ・ブランドでは日本で一番売上が多いんですよ」。
シニアになったら健康な生活を心がけ体型を保つ緊張感のある服を着て、もっと自分の美しさを触発していくべきとコシノさんは提言する。「“介護”という言葉も楽しく前向きなイメージになるといいですね。私の作品は年ごとに若くなるんです。現在のテーマは“着にくい服を着やすくするにはどうしたらいいか”。誰にも真似できない個性的な着こなしをぜひ皆さんにもしていただきたいですね」。
バレエのコスチュームからスポーツのユニフォームまで手がけるコシノさんの柔軟な発想と積極的な人生観に、勇気づけられる思いのした実り多いひとときだった。