大林 宣彦さん 映画作家

2007年07月-月刊:介護ジャーナル掲載より

誰もやらない映画作りが元気の素

1938年広島県尾道市で代々続く医者の家に生まれる。新進気鋭のCMディレクターとして数々の話題作を生み出した後、商業映画に進出した『HOUSE』が大ヒット。日本の映画シーンを一新した。ことに故郷尾道を舞台にした『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』は、“尾道三部作”として若い世代から圧倒的な支持を受けた。そして今年の夏、25年の時を経て名作『転校生』が大林さん自身の手でリメイクされ、劇場のスクリーンに蘇ったのである。(当時69歳)

◎蒸気機関車が感性を育(はぐく)んだ

もしも男の子と女の子の心と体が入れ替わってしまったら? 映画『転校生』は思春期の少年少女の瑞々しく切ない心模様を描いた作品で、舞台となった美しい坂の町・尾道を訪れる若者が今も絶えない。この地で育った幼い大林少年は、町を通過していく蒸気機関車に夢中だった。
「町に入るとき、ポッポッーと2度汽笛を吹き上げるんですね。それが多島海と呼ばれる周囲の島々に響き、こだまとなってポッポッポッポッと聞こえてくる」と、当時の懐かしい情景を鮮やかに語る。「やがて瓦屋根が揺れ始め、強い光がキラキラと乱反射して海のきらめきと一体化する。さあ来るぞ来るぞと僕の胸も激しく高鳴る。するといきなり我が家のすぐ前でボーっと汽笛が吹き上がり、とたんに火山の真っ只中に放り込まれたようなものすごい黒煙の臭いと音。怖くなってもう悪いことはしませんと祈るうちに、汽車は遠ざかり、再び青い海や緑の山が戻ってくる。汽車が来て去っていくこの5分という時間は、物語が始まって終わるまで、あるいは人が生まれて死んでいくまでの凝縮した時間でもあり、ときめきに始まり、いざ来たときの喜びに勝る恐ろしさ、そして去った後の淋しさ、そうした何か感性のようなものを私に植えつけてくれました」

◎映写機とピアノとの運命的な出合い

医者の家は町の文化の中心でもあり、常に大勢の大人たちが集い、大きな納戸の中には天眼鏡や骸骨、極彩色の写真といった珍しい品々が持ち込まれ、うず高く積まれていた。
ある時大林少年はその納戸で、大好きな蒸気機関車の玩具を発見する。実は汽車ではなく映写機だったのだが、そこは子どもの天衣無縫な発想で、いったん切り離したばらばらのフィルムを母に糸でかがってもらって上映すると…。
「のらくろやポパイや冒険ダン吉が混じり合って競演を始めた。これは面白いと、今度はつなぎ方を変えて自分の物語を作る。いまでいう編集ですね。また、絵のはがれたフィルムに自分で絵を描いて動かすと、これはアニメーション。いわゆる映画監督さんというのは、映画を観て好きになって監督という職業を選ぶわけですが、私の場合は映画を観るより作ることから先に始まったのです」
大林少年が納戸で発見したもう一つのもの、それはピアノだった。“黒と白の積み木が並んだ”その玩具には弦がなく、音は出なかったが、戦争から帰った父が代わりに中古のピアノを買ってくれた。真っ昼間からポンポンと音を出して遊べるピアノは、まさに平和の象徴のように思えた。ピアノは後に大林映画に欠かせないアイテムとなる。
医学部受験のために上京。しかし、映画への恋慕は断ちがたく、「医者はやめて映画を作ります」と家に電報を打った。父は何も反対せずに8ミリの撮影機を手渡してくれた。そして、成城大学に通いながら映画作りに没頭する日々が続く。
「当時はフィルムの値段が高く、1日に1コマと決めて撮影しました。それが1年2年経つと1本のフィルムになっていくわけですね」
やがて芸術分野の若い仲間たちと東京・新橋にある画廊で作品を発表し始める。それが大変な評判を呼び、先鋭的な美術雑誌に「新しいフィルム・アートの時代が来る」と紹介されたのだった。

○映画『HOUSE』は事件だった

新しい時代の風が吹き始めていた。紀伊国屋ホールの落成記念に、仲間たちと「60秒フィルム・フェスティバル」を開催。これに注目したのが、まだ草創期の日本CM界だった。
「スポンサーつきの個人映画が作れるぞ」と勇んでCMの世界に足を踏み入れた大林さんは、日本映画の衰退と逆行するように、チャールズ・ブロンソン起用の「マンダム」をはじめ、多くの話題作を送り出し、一躍時代の寵児に。スピルバーグ監督の『ジョーズ』のような、元気のいい映画を日本でも作れないだろうかと持ちかけられたのは、そんなときだった。
「それまで映画監督になるには、映画会社の社員になって年功序列で監督になるという道しかなく、外部の私にやれるわけがなかったんです」と大林さん。企画はすぐに通った。当時12歳の娘・千茱萸(ちぐみ)さんのアイデアで、夏休みに7人の少女が家に食べられてしまうという内容だった。タイトルは横文字の『HOUSE』。
「だけど企画は通っても、監督のやり手がいないんですよ。こんなバカバカしい映画は作れないって(笑)」この時、応援してくれたのがマスコミだった。2年間毎日のように、新聞雑誌やラジオで『HOUSE』の話題が流され、ついに「日本映画界で誰もやらなかった、考えもしなかったことをきっちりやってやる」と決意した大林さんの手によって、映画は完成。それは日本映画史上の一大事件だった。
斬新な映像の『HOUSE』は驚異的な大ヒットとなり、15歳以下の少年少女が列をなして並び、ロビーの売り上げも大記録を打ち立てた。こうして従来の映画監督(ムービー・ディレクター)に代わる、映画作家(フィルム・メーカー)としての大林さんが誕生したのである。

◎50年後の子どもたちのために

『HOUSE』の成功後も、“尾道三部作”をはじめ、04年の『理由』まで映画製作の依頼は引きも切らず、大林映画の熱狂的なファンを魅了してきた。そして、今年07年6月23日から『転校生−さよなら あなた−』が全国ロードショー、8月4日からは“大分三部作”の第2弾『22歳の別れLycoris葉見ず花見ず物語』が劇場公開される。
「おかしく切ない青春逆転ファンタジー」というキャッチコピーのついた『転校生−さよなら あなた−』は、名作『転校生』(82年)の舞台を尾道の海から信州長野の山へと変えた、25年ぶりのリメイク作品。製作のいきさつを、大林さんはこう語る。
「長野の人たちが訪ねてきて、50年後の長野の子どもたちに観せたい映画を作ってほしいと。こんな依頼ははじめてでした。僕はじっと考え込み、50年後も映画を観て暮らせるような平和な社会でありたい。そのための映画作りをしたいと思ったんです。そしたら、プロデューサーが『いっそ転校生をやりましょう』と。僕が『尾道以外ならね』と答えると、横から奥さんが『信州長野でやろう』。この3人のたった15秒の会話で決まりました(笑)」
現在、大林さんは3つの大学で教える傍ら、講演旅行で全国をかけ回っている。
「映画は社会の鏡。レンズを切り口にして、社会のいろんな局面を語り合えます。映画を作ること、それは何より僕に元気を与えてくれるんですね。こうなったら25年後にもう1度、『転校生』を作ってみたいなあ」