萩本 欽一さん コメディアン

1994年09月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時53歳)

挑戦し続ける人生を、老後の夢はスポーツカーで大学へ

コント55号で一世を風靡(ふうび)し、10年近く続いたテレビ番組「欽ドン」シリーズで爆発的な人気を得た欽ちゃん。
ブラウン管から遠のいたかと思ったら、昨年「シネマジャック」なる映画をひっさげて再登場した。
これは15分の短編映画5本を、1本300円で見る新しいシステムの映画。
観客が見る本数を自己申告して入場料を払うという、かつてない方式が注目を集め、その第2回作品(1本20分を5本)が9月下旬から全国60ヶ所の東邦洋画系の映画館で公開され、欽ちゃん自身も各映画館を訪れる。
舞台、テレビ、映画と常に新しいことにチャレンジしてきた欽ちゃんも、早や53歳。
そこまで来ている”老い”についても楽しく見すえている。

◎幸せはつらさの中にある感動して泣ける人生がいい

欽ちゃんは浅草の劇場で10年、下積みを経験したあと、コント55号で一躍人気者に。10年つらかったら、10年いい思いさせてくれた。
神様ってよくしてくれてますよ」それはコント55号をやめたときも同じで、「思うような仕事もなくて3年ほどブラッとしてたんです。
作家が4人も居候してて金はかかるしね。こいつら早く出ていかないかななんて思ってたら、その子たちが『欽ドン』を作ったんです」つらいときは、いいことがやって来る前ぶれというわけですよ。
「それと、つらいめに合ったとき、何かにぶつかって感動して泣けるでしょ。
人生の中で、何度そうやって泣けるかだと思うんです。
宝くじ1億円当たっても泣かないだろうけど。それはつらいんじゃない。
その倍のいい気分が味わえるんだもの。
看護しててつらいと思ったときに『いつもすまないね』なんていう何気ないセルフで泣けたりする。
それを称して『幸せ』というんじゃないですか」

◎怒られて喜んだ車椅子の青年障害者とは”普通”に接する

障害者とのふれ合いでは、欽ちゃんにとって忘れられないでき事がある。
24時間テレビ「愛は地球を救う」に出演していたときのことだ。
車椅子で走り回っているA君(当時20歳)に欽ちゃんが「危ないから、好き勝手にしちゃダメ」と怒った。
「すると周りは障害者に怒っちゃダメという顔をしたんだけれど、A君は『生まれて初めて怒られた。欽ちゃんは僕を普通の人として扱ってくれた』って喜んだの。それ聞いてみんなホロッと泣いたね、拍手したね。怒られて嬉しいなんてA君はすごいヤツだねって」それ以来、「気を使いすぎず、普通に」を心がけている。
助けてあげなきゃというえらそうな気持ちはなくなったし、障害者自身の心もそんなに弱かねえと感じたそうだ。

◎老後はスポーツカーで大学へ欲ばりと冗談で生きたい

53歳のいま、欽ちゃんは、「年とったら一番おもしろそうなことやりたい」とニンマリ。何とそれは、大学だという。
「赤いスポーツカーに乗って、バッグに数百万円入れて、プレイボーイと競馬新聞持ってね。
そいで学生に、『俺みたいに働いてから趣味で大学に来るといいぞオ』なんて言うんだ。
落第すれば8年は遊べるな」やりたいことがあるというのは素敵なことであるし、生きる意欲にもなる。
「チャップリンにあったとき、すでに82歳だったけど、次の作品を考えてるって言ってたし、水の江滝子さんも乗馬やってるそうで、来年はあの馬に、次はこの馬って考えてると年のこと忘れるって言ってましたからね。
年とったら欲ばりでいいんだな。
あれ食いたい、若い子ナンパしようとかさ。
冗談でいいから。年とったら冗談で生きていきたいって思いますね」冗談で、しゃれで人生をしめくくろうなんて、やっぱり欽ちゃんは根っからのコメディアンなんだ。