三國 連太郎さん 俳優

1999年02月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時76歳)

痴呆老人“役”になりきり新境地へ

幅広い役柄を見事に演じ分けてみせる名優。
重厚な役からコミカルな表情まで実に多彩だが、誰もがそこに、ある種の深みを感じとる。
役というフィールドを通じて、人間の生き方を考え抜いてきた、俳優としての真摯な生き様が見え隠れする。
誰にも真似ることのできない俳優・三國連太郎が、演じることをやめ“痴呆老人役”に挑戦した。

◎痴呆をストレートに描いた喜劇風の現代版姥捨て伝説

最新作の映画『生きたい』で、76歳の三國さんは70歳の痴呆老人・安吉を演じる。
86歳の新藤兼人監督が病院入院中に構想した、現代版姥捨て伝説を喜劇タッチで描いた作品だ。役作りのために訪れた老人ホームは、「案外明るかった」そうだ。
しかし、入所者と話をしてもまったくかみ合わず、入所者はすぐにどこかへいなくなってしまう。
食堂のテーブルの模様は、入所者が食事をせがんで叩いているうちにできた傷だと知った。
「違う時間を生きている人々に触れられた」と語る。
この映画は、そんな現実をオブラートに包むことなく、ときにストレートすぎるとも思うほどに高齢者問題を描いている。
たとえば、失禁のシーンだ。それを新藤脚本特有のユーモラスな台詞と共演の娘役・大竹しのぶさんの明るい演技が救う。
さらに、吉田日出子、柄本明、津川雅彦らの演技派の面々が支え、奥行きと膨らみを増す。
人生の辛辣を軽く笑い、喜劇の中に人生を謳う人間達のためのドラマだという。
中には、体重40キロの大竹さんが、80キロの三國さんを背負うシーンもある。
三國さんの出演作は60数本におよぶが、初めて「演じてみせるということをやめようと思った」という。
自分をいかに痴呆状態に持っていくかを突き詰めたというのだ。
表層的な自意識を取り払い、痴呆状態の自分を意識しない自分を引き出して、すべての撮影に臨んだ。
こんな通常の役作り以上の役作りがあってこそ、失禁というシーンも撮影できたのだろう。
誰にも訪れる老い。万人に共通した問題だからこそ、隠さずに見せる。三國さんも「自分たちの問題として観てほしい」と語った。

◎親鸞の研究で見えてきた日本社会の未熟さと歪み

俳優業だけでなく、親鸞の研究をライフワークに持つ。
約3カ月かけてドキュメンタリーを撮りにインド、パキスタンをまわるうちに、日本の仏教があまりにも変質していることに気がついた。
「組織のために教義そのものが大衆におもねられて歪められ、組織仏教になっている。仏教とはもっと実質的、実践的なもののはず」という思いから、親鸞の映画を自ら監督した。
原作は、三國さんが昭和60年に書いた長編小説『白い道』だ。
62年のカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞している。
歴史を遡って宗教を追ううちに、現代社会の歪みがより鮮明に見えてきた。
「今日の行政、政治経済の歪みは、鎌倉、室町の時代的変遷の中で、個人の思考がどこかに吸い取られていって、自己が独立していないためだと思うんです。その集合体が日本の現在の宗教です」。
この日本の体質の中では、事件を起こした新興教団を一概に責められない気がする、と話す。

◎生き急ぐ時代だからこそ考えることをやめない

映画『生きたい』の中にも、“一所懸命に国家のために働いてきたのに、こんな仕打ちを受けるとは何事か”という安吉の台詞がある。
三國さんは、高齢者問題は若者の問題といい切る。
福祉の問題が最優先されるべきで、早急に解決しなければ、昔の沖縄の“切り捨て御免”の人口政策になりかねない、収拾のつかない世の中になると危惧する。
こうした心寒い日本の高齢者福祉は、一般個人の文化への不理解も影響していると話す。
海外で日本映画が評価されない理由は、どこの国の映画かわからないからだといわれる。
自国を愛する感覚を持てない日本人が、文化レベルを引き下げ、老いゆく自分たちの未来の道を閉ざしている。
高度経済成長時代に根づいた金儲け主義は、「私たちに大きな災害を残しましたね」と穏やかな口調で語った。
俳優でありながら、社会を鋭く考察する三國さんは、仕事に対しても自分のスタンスを守る。
年に10本の出演依頼があれば、2本に絞り8本は断る。
集中力を維持するため、撮影は3カ月の間隔をあける。
自己管理も、日課の4キロの散歩を20代から続けている。だが、後輩への説教はナンセンスと嫌う。
生き急ぐ時代だからこそ、あえて自分の歩幅で歩き、考えることを止めない。
それが俳優・三國連太郎の生き方なのだ。