中嶋 悟さん 元F1ドライバー

1999年11月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時46歳)

「スピードに賭けるチャンピオンの夢は無限」

日本人初のF1(フォーミュラー1)シリーズドライバーとなり、海外でも華々しい戦績を残して平成元年に引退した中嶋悟さん。
時速数百kmもの猛スピードでコースを走り抜けるF1レースには、当然事故がつきものだが、中嶋さん自身は大事故に遭うこともなく、“死”を考えたことすらなかったという。
「車の運転が好き」という理由だけでこの道を選んだという中嶋さんに、レーサーという職業について、そして引退後の現在について語っていただいた。

◎子供の頃からの趣味が高じて世界的なF1ドライバーに

中嶋さんがレーシング・ドライバーを目指すきっかけとなったのは、16歳から始めたゴーカート・レースだった。
「取っかかりは趣味なんですよ。
レーサーになろうと思ってなったわけじゃなく、子供の頃から乗り物が好きで、オートレースや自動車に対して興味があったので、そこから入っていったんです。
もし、食べていけるような結果に結びついていなかったら、趣味で終わっていたでしょうね」。
それまでの職業としてのレーサーといえば、トヨタや日産、マツダなど自動車メーカー所属のドライバーがほとんどだった。
それでも、自分でレースカーを買ってきて競走に参加することもできたし、企業をスポンサーに迎え、そのコマーシャルを兼ねてレースに出場する者もいた。
「F1などは、完全に職業人ばかりですからね。
取っかかりがどうであれ、大会に出て勝ちさえすれば、当然、F1のレーサーとして食べていける可能性がある。
だから僕も、最初は自費で自動車を手に入れて、自費でレースに出たんですよ。
賞金などがあるカテゴリーではなく、ほんの入り口といったところでしたけど」と当時を振り返る。やがてレースで勝ち抜くようになり、「その頃偶然、職業ドライバーが足りなかったのかなぁ」と照れながらも、中嶋さんは「ひょっとしたら、この世界でやっていけるのではないか」と考えるようになったという。
「勢いに乗ったら調子がいいものだから、じゃあレーサーになっちゃおう、という感じだった」と軽くいうが、それからの活躍は周知の通り、レーシング史上に数々の輝かしい記録を残している。
昭和48年の鈴鹿シルバーカップ・シリーズにデビュー、チャンピオンとなって注目を集めるや、その後も立て続けに勝利を収め、全日本F2シリーズでチャンピオン5回、鈴鹿F2シリーズでもチャンピオン5回、F2シリーズ通算21勝。海外レースでは欧州F2に挑戦し、57年に英国シルバーストン2位、60年にフランスで行われたル・マン24時間でも総合12位と健闘した。
2年後、英国のロータスからF1レーサーとして参戦。
日本人初のF1シリーズドライバーとして期待通りの活躍を見せ、平成2年ティレルに移籍。
内外のレースで常に上位の入賞を果たしている。
これだけの結果を出せるドライバーではあったが、車の構造・性能については無関心だ。
「車の構造がどのようになっているか、ということに関しては興味がないんです。
レーサーは速く走ることが使命だから、スピードが出なかったら、もっと速く走るようにしてほしいとか。車を走らせた感覚的なことで、例えばコーナリングが甘ければ、もっとスムーズに曲がれるようにしてほしいといったことを専門家にいってるだけ」だという。
エンジン性能がどうこうという以前に、運転する側にとって自分の能力を最大限に発揮できる車で相手と競走したい。
だから、もっとも重要なのは、車体の重心移動である。当然のことだが、レースの世界では自動車という重い物体をどれだけ速く動かすことができるかが勝敗を分ける。
中嶋さんは、「前のタイヤと後ろのタイヤの感覚だけで運転する」という。
技術より“感覚”が優先する世界なのだ。

◎普通のおじさんになっても好きなことを夢見て生きたい

レースの最中は、自分でも想像できないような力が出てくるのだという。
中嶋さんは「もともとスピードに対する恐怖心など感じたこともない。
車を速く動かすことが好きなので、とにかくレースそのものが面白い」という。
しかし、誰もがレーサーになれるわけではない。
「なろうとする努力は必要だけれど、プロのレーサーになれる保証はない」といい、レーシング・ドライバーの世界で、見事チャンピオンの座を得たのに、「自分は趣味から入ったので、プロという資格はない」と謙遜する。
だが、好きなことに命を賭け、ひたすら前向きにレースに挑み続けて、「自分に課せられたものは最大限にやったと思う」といい切る中嶋さんを、プロと認めない人はいないだろう。
引退後の平成4年、F1ドライバーを育てるためにナカジマ・レーシングを創設し、監督となった。
平成9年には、ティレルのスポーティング・ディレクターにも就任。多忙な毎日を送っているが、「やっと、普通のおじさんになれましたよ」と、少し出たお腹をなでながら笑う。
やせて細身だった中嶋さんが、レーサーとして必要な筋肉を付けるために厳しいトレーニングを積んでいた頃を思い出すと、今でもつらくなるのだという。
だから、引退後は一切身体を動かさず、筋肉が落ちて脂肪に変わっていくことに“幸せ”を感じるそうだ。
最近、友人を亡くすなど年齢を感じる出来事が多くなったそうだが、「これからも好きなことを夢見て、何かやっていくしかないですね」と、レーサーとしての可能性を秘めた若者と一緒に強くなれたらと願う中嶋さんに、十数年後に来る自分の老後について、真剣に考える暇はまだないようだ。