カルーセル 麻紀さん タレント

2000年02月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時57歳)

年を忘れ、今を生きる、それが美貌の秘訣

1999年6月、性同一性障害に悩む男性に対する初めての性転換手術が、埼玉医大で執刀された。
この日本での手術解禁を一歩前進と評価する麻紀さんは、美輪明宏、ピーターとともにゲイの草分け的存在で、特に『11PM』などのテレビを通してお茶の間に影響を与えた功績は大きい。
従来の“男・女・家族”の枠を超えた新しい人間関係の上に老いや介護問題を考える人々が増える中で、麻紀さんの生き方はひとつの可能性を指し示すものといえよう。

◎心と身体の違いに悩みゲイの世界へ偏見に屈せずテレビの中に自己を築く

ロココ調の装飾の居間の、これまたロココ調のソファーにゆったり腰を下ろしながら、麻紀さんは「ゴルフのせいで腕が痛くって…」と、あでやかな笑みを浮かべていった。
くっきりとメリハリのきいたメイクに、モデルのようにスリムでしなやかなボディー。
ことに、両足のももは驚くほど細い。
とても実年齢には思えないほどの若々しさだ。
「幼い頃、言葉をしゃべりはじめるくらいから、もう自分は女の子っていう意識がありましたね」。
北海道釧路市で、9人兄弟の真ん中(戸籍上は次男)として育った。
「本当は美容師になりたくて地元の美容院へ面接に行ったら、坊やの行くところは理容室だって断られて。
当時はまだ、普通のかっこうをしてましたから。といって力仕事はできないし、汚い仕事はイヤだし…」。
そこで15歳の麻紀さんは、ゲイを目指して家出をする。
札幌・すすき野の『クラブ・ベラミ』を振り出しに道内を転々とし、17歳の時に上京。銀座の『葵』というゲイバーに落ち着いた。
ここで掃除・洗濯から縫い物やご飯の支度まで、みっちりと仕込まれた。
「あの頃はキツイなぁと思ったけど、今になってみると、その厳しさがずいぶん役に立ってますね」と、麻紀さんは当時を振り返る。
その後も全国をまわって、大阪の『カルーゼル』というお店にたどり着いた。
現在の芸名はこのカルーゼル(フランス語で回転木馬のこと)からとったもので、発音しづらいせいもあって、いつの間にか「カルーセル」と呼ばれるようになったそうだ。
転機は、お店に来た市川猿之助さんの紹介で東京へ行き、東宝のオーディションを受けたこと。
合格後に実は男と打ち明けたため、マスコミがワッと押しかけて来て、大きく脚光を浴びた。
そして、これが芸能界デビューとなる。麻紀さん、19歳の時だった。

◎完全な自分を求めてモロッコで手術を

外見上の性とは無関係に、自分で男あるいは女と認識することを、ジェンダー・アイデンティティー(社会的性同一性)という。
5つのジェンダーとは、男・女・同性愛・両性愛・性転換を意味するが、今でもなお異性愛が正常とされていて、これに反する同性愛の人たちはまだまだ差別や偏見の中で生きているのが現状だ。
まして麻紀さんがゲイであると表明したのは、同性愛が異端視され、性転換手術自体も有罪とされた時代である。
だからテレビに出る時も、麻紀さんはいっさい本名を明かすことをしなかった。
30歳の時に、モロッコで性転換手術を受ける。
大阪時代にすでに去勢手術はすませていたが、パリから来日していたブルーボーイ(今のニューハーフのこと)たちにきいて、モロッコのカサブランカでの手術を決意。
パリに渡って半年間お店でショウをやりながらフランス語を覚え、医学書を買って手術についての知識を得てからモロッコへ向かった。
「あっちに着いたら、なんと戦争をやってるんですよ。
途中はずっと砂漠で、たまにロバやラクダが通るだけ。
本当にたどり着くのかと不安になった頃に、ようやく白い建物(まさにカーサ・ブランカ=白い家の地名のような)が見えて、それが目的の産婦人科病院だったんです。
で、看護婦がポンと注射を打って、麻酔から覚めたのは2日後でした」膣形成の性転換手術は無事終わったが、術後の処置が悪かったため、麻紀さんは半月以上も高熱に苦しんだ。
しかし腸が化膿しているというのに、医者は何もしてくれない。
「そこで看護婦にお金を渡して手術道具を持ってきてもらい、トイレの床に鏡を置き、自分で化膿した部分の腸を引っぱり出して処置して…。もう、ほんとに命がけでした」。

◎女性は最期まで美しさに貪欲でいて

結局、通常1週間のところを、40日もかかって退院した。
「後でこの時のことを上岡龍太郎に話したらね、“麻紀の話を聞いたら、オレのギャラが1万で麻紀が100万でも、オレ絶対文句いわんワ”って。もしあの手術の1、2年後に私が死んだら、その後は誰も性転換手術を受けようとはしなかったでしょうね」と麻紀さんは感慨深げに、しかしパイオニアとしての誇りを胸に回想する。
それ以来、病気をしたことがないという。
そんな麻紀さんの美容法は、1日1食のダイエットと“腰湯”、それと歩くこと。
「パリに行っても、万歩計をつけて歩くんですよ。
ご飯も40分かけてようく噛んで…。
楽しい会話が何よりの御馳走ですね」。
女性ホルモン療法も、若さを維持する秘訣だそうだ。
「とにかく女性は最期まできれいでいなくちゃ。年を考えちゃダメ。おふくろは先日米寿のお祝いをしましたが、まだひとりで元気に北海道で暮らしていますよ」。
老後を心配するよりも今を精一杯に生きると語る麻紀さんの顔は、ひとつの時代を創った自信にあふれ、何よりも日々の“生”の喜びを肯定するその姿勢は、これからも私たちを大いに刺激し続けてくれるに違いない。