周 富徳さん 料理人

2000年06月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時57歳)

料理人には終わりがない

自分の名前で客を呼べる数少ない料理人、周富徳さん。その腕前を買われ、中華料理界の名店からスカウトの声がかかる。
10年の節目ごとに店を変わり、その都度に名店をさらに大きく成長させてきた。
現在は、青山に自営店『富徳』を構えている。
料理だけでなく、マスコミに周さん自身も多数取り上げられながら、少しも奢ることのない気さくな人柄にファンも多い。

◎10年ごとに大店の総料理長、名前で客呼べる一流料理人

周富徳といえば、日本でもっとも有名な料理人のひとりに入るだろう。
雑誌に彼の記事が掲載されるのは月平均2〜3誌、テレビ出演は1〜2回、中華合わせ調味料のテレビコマーシャルでは、彼の調理の手さばき姿が連日お茶の間に届けられた。
食品会社のイベントの講師を務めることもある。
今の中国料理界にあって、自分の“名前”で客を呼べる数少ない料理人だ。
彼が今ほどに有名になる前、いつの頃からか、食を愛する人々の間で、周富徳の名がささやかれるようになった。
同時に、周さんが店を変わる度に、中国料理界でもその評判が高まり、名店と呼ばれる高級店からスカウトの声が多数かかるようになった。
周さんは不思議と10年をひとつの節目として職場を変わってきた。
最初に勤めたのは東京新橋の『中国飯店』。ここで10年間修行を積んだ。
1971年には、京王プラザホテルの『南園』にスカウトされ、ホテルのオープンと同時に入社し、副料理長として10年間勤務する。
その後、『聘珍楼』にスカウトされ取締役料飲部長を務めた。
次いで、1991年には赤坂の広東名菜『璃宮』の総料理長に迎えられた。
そして現在は北青山に自らの店『富徳』をオープン、経営している。
ちなみに、周さんは勤めた店の売上を必ず伸ばすという実績を残している。
中でも聘珍楼は、周さんの入社後10年で香港に逆上陸を果たしたほか、それまでの規模の3倍に成長したという。

◎ネギだけの炒飯でも美味、料理の奥深さ知り感動

横浜の中華街で生まれ育った。
料理人だった父の背中を見て育ち、幼少の頃から父のような料理人になりたいと夢見ていた。
そんな周さんの料理人への原点となった出来事は、小学3年生ぐらいのことだ。
学校からお腹をすかせて帰宅すると、台所に残っていた冷や飯とネギだけでチャーハンを作って食べた。
ネギの炒め加減で、ネギだけでもおいしいチャーハンができることを知り、料理の奥深さを感じたという。
「ネギだけでも魔法のようにおいしくなっちゃうことを発見して、料理の素晴らしさに感動したね。あの当時、料理人は社会的には下のランクだったけど、早く父のようになりたかったな」。
日本を席巻したグルメブームは、料理人の地位をぐっと押し上げた。
グルメ漫画『美味しんぼ』には、彼をモデルにした料理人が登場している。

◎老人ホームのお年寄りに料理の出張ボランティア

周さんは、ときどき客席をまわっては客の顔を見て、メニューにはない、その客に合わせた料理を出すという。
「だいたいはずれたことないよ。次に来る時も、この間のあれが食べたいっていわれるもの」。
その才能を活かして、テレビ番組の企画で老人ホームへ行き、そこのお年寄りに合った料理をその場で作るというボランティアを体験したこともある。
お年寄りの食べやすい、茶碗蒸し、野菜、やわらかい牛肉などをメニューに盛り込んだという。
老人ホームでは、入所している高齢者らの家族が、一口だけでも周さんの料理を食べようと定員の4倍くらいの人が集まったとか。
健康観については、「おいしかった」と感じる喜び、満足感が大事だと周さんはいう。
「いくら身体にいい食べ物であっても、まずいものを我慢して食べていては健康によくない。おいしいという満足感と、腹八分目にすることだね」。

◎気軽に入れる庶民的な店出したい

自分の店を構え、料理人の頂点を極めたかに見える周さん。
しかし、それに甘んじることなく、ときどき香港に出かけては、有望な人材を集めて後輩の育成に心血を注ぐ。
「今の若い人たちは、最初から厚遇を要望してくる。料理の技も昔は自分で盗むものだったけど、今の人は教えないと辞めちゃうからね」と後輩を育てる難しさを語る。
今後やりたいことはと聞くと、周さんは気さくにこう答えた。
「ごく庶民的なお店で、おいしいチャーハン、ラーメン、カレーを作りたいね。
チェーン展開はしないで、気軽に来られる店をやりたい。
自分が小さい時はお金で苦労したから、サラリーマンが1000円でランチを食べられるようにしたい。1000円だって、サラリーマンにしたらまだ高いくらい」。
10年ごとに節目を迎えてきた周さんだが、さらなる10年後の周さんは何を目標にするのだろう。
璃宮時代の周さんはこう答えている。
「料理人には終わりがないけど、よれよれになるまで働きたくはない。10年後は自由人になって、本当にやりたいことを選んで。もちろん料理だよ。楽しみだな」。