岩城 宏之さん 指揮者

2001年06月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時68歳)

「指揮棒に情熱を込めて」

日本が世界に誇るトップ指揮者の岩城さんは、よい意味で“初演魔”といわれるユニークな音楽家であり、エッセイストとしての素晴らしい才能もお持ちである。
現在は、『オーケストラ・アンサンブル金沢』で音楽監督をされている。
その岩城さんが、芸大でのティンパニー奏者から世界的な指揮者になるまでの楽しいながらも涙ぐましい努力と、観客席からではなかなか知り得ない“指揮者の謎と真実”について、軽快な口調で語ってくださった。

◎偶然が導いた指揮者への道

「僕はね、本当は東大へ入ろうとしたの」と、岩城さんはちょっと茶目っ気のある顔つきをしていった。
「東大を出て大蔵省に入った親父が、なんとか末っ子の僕を同じ東大に行かせたがってね。それが2次試験の前に高熱を出してしまい、結局東大を棄権してすべり止めの芸大へ入ったんです。だからいまだに、『東大には落っこちてはいないんだ』って威張ってるんですよ(笑)」。
意外なことに岩城さん自身、特別に芸大を目指していたわけではなかったのである。
そのうえ、それまで正式に音楽を学んだこともなかったという。
「芸大打楽器科4年の時、NHK交響楽団から副指揮者—まあ見習いですが—の誘いがあり、この時から無茶を承知で指揮者の道に入ったんです」。
しかし指揮というのは誰かから習うこともできないし、逆に教えることもできない特殊な技能である。
「だから僕は、ほかの指揮者の技術を盗みぬすみ練習しました」。
指揮者になるには?の質問に対しては、「なれるヤツだけがなれるし、なれないヤツにはなれない」という、厳しいが現実的な答えが返ってきた。
自力でさまざまに模索を続け、日本有数の指揮者となった岩城さんならではの重い言葉でもあった。
要するに正式な“指揮法”などはなく、指揮とは曲に対する自分自身の熱い思いを表現することなのだ。
「東京近郊だけでも、いわゆる指揮を仕事にしている人が1500人ほどいるそうだけど、本当の指揮者と呼べるのは20人。辛く見て3人程度かな」と、さらに厳しい評価も返ってきた。
指揮者のカリスマ性というのは、オーディションの時点でわかるそうだ。

◎頸椎の病気で車いす生活を体験

客席から観ていると、指揮者はいとも優雅に指揮棒を振っているように感じられる。
しかし、多い時は1日に2万回程も腕を振り上げるために、ムチ打ちに似た衝撃を頸に受けやすい。
岩城さんも14年前、頸椎の複雑な故障にかかり、車いす生活を経験した。
病気の兆候は20年前から始まり、じわじわと進行していたという。
「母は僕が17歳の時に、父は55歳の時に亡くなりました。
だからいわゆる老人介護の経験はありませんが、自分が半年間車いす生活をして、日本の社会が身障者にとってどんなに住みにくいかを実感しました。
体の辛さより、身障者に対する見方や心が冷たいと思いましたね」と、感慨深げに当時を振り返る。
そして、あのカラヤンも腰の手術をしたことがあると話してくれた。
岩城さんの場合は特に、世界のトップ指揮者の中でも“初演魔”といわれるほど、現代音楽を数多く指揮してきたため、頸への負担も大きかったのだろう。

◎指揮者の立場から

「好きな指揮者は、カラヤンなど数人ですね。オーケストラでは名のある人とはたいてい 相性が合いますが、共演したくない人もたくさんいますよ(笑)。現在、音楽監督をしている『アンサンブル金沢』では3分の1が外国人です。日本人はどうしても几帳面だから、この割合でバランスがちょうどいいんですよ」。
では、指揮者から見た観客のマナーはどうなのだろうか。
「楽章の合間にザワザワしたりするのは気になりませんが、演奏が静かに終ってまだ余韻があるうちに、我先にと拍手をする無神経な人が多いので困ります。
また外国の影響で、『ブラボー』と叫ぶ人が増えてきているのも困りものです。
ちっとも感動していないのに、外国の聴衆のまねをするのは愚かなことです。
逆に忘れられないのはね、ヘルマン・プライという有名なバリトン歌手とドイツでシューベルトの『冬の旅』のオーケストラ版を初演した時、最後の曲が静かに終わった後シーンと音楽的な緊張が数分間続き、だんだん拍手が起こって最後は観客が立ち上がり、30分も拍手が鳴り止まなかったことですね」。
2人のお嬢さん方は音楽を愛しながらも同じ道に進まなかったそうだが、どうかいつまでも“世界の岩城”として指揮棒を振り続けていただきたいと切に願う次第である。