平尾 昌晃さん 作曲家・歌手

2001年02月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時63歳)

「音楽もひとつの“伝道師”」

“日劇ウェスタン・カーニバル”と聞けば、60歳前後の女性の多くはあの華やかで熱狂的な青春の一幕を、昨日のことのように思い出すだろう。
また年代が下るごとに、『霧の摩周湖』『よこはまたそがれ』さらには『銀河鉄道999』などの著名な作曲家としての印象がより強くなる。
50年代のアメリカ音楽に衝撃を受けてプロの歌手になり、病を得て作曲家に転じた平尾さんの曲は、私たち日本人の心の故郷でもあるのだ。

◎プレスリーに影響を受けてロカビリー歌手に

ラジオ番組収録後に慌ただしく取材に応じてくださった平尾さんは、疲労をみじんも感じさせないほど快活で雄弁に話され、本物のプロ意識の在り方を示されると同時に、そのやさしいお人柄に私たちはたちまち魅了されてしまった。
まずは生い立ちから…。
「東京の家が戦争で焼けた後、小学校2年から慶応高校2年まで江ノ島の別荘で暮らしていました。
父がモダンな人で、月に1回は家でダンス・パーティーを催していましたね。
15歳の時に高校へ通いながら、週に1回東京の『日本ジャズ学校』でレッスンを始めたんです。
もともとプロになる気はなかったんですが、ジャズ学校がきっかけでプロの世界に入っちゃったんですね」。
1956年(昭和31年)彼が最も影響を受けたというエルビス・プレスリーの『ハート・ブレイク・ホテル』と『ハウンド・ドッグ』がリリースされるや、日本でもロカビリー・ブームが巻き起こった。
そして58年2月に『第1回日劇ウェスタン・カーニバル』が催され、“ロカビリー3人男”と称される山下敬二郎、ミッキー・カーチス、平尾昌晃の各氏は熱狂的な女性ファンから絶大な支持を得たのだった。

◎闘病生活の体験で人のつながりの大切さを学ぶ

「58年にデビューして、翌年に初めて作った曲が『ミヨちゃん』なんです。
『思い出』もその頃ですが『ミヨちゃん』のヒットの陰に隠れてしまって…。
それが66年頃から北海道で急に火がついて3万枚も売りました。
同時期にカンツォーネを歌っていた布施明と出逢い、12月に『霧の摩周湖』を発売しました。
この曲で第9回日本レコード大賞作曲賞を取りましてね。
だからもっとも印象に残っている曲は、『思い出』と『霧の摩周湖』のふたつですね」。
デビューから10年目の68年から2年間、平尾さんは結核にかかり療養生活に入ることになる。
ちょうど作曲家になるか歌手の道を行くか迷っていた時で、「しばらく歌は忘れて療養に徹しなさい」という医者の言葉と、『霧の摩周湖』の大ヒットや受賞で、静養への踏ん切りがついたという。
「その代わり入院中でもギターは弾けますから、ベッドの上で伊東ゆかりの『恋のしずく』など作ったりしたんですよ(笑)」。
やがて平尾さんは信州・諏訪湖のほとりの塩嶺病院へ転院するが、新聞やテレビで彼の療養を知った見ず知らずの人々が山菜や手紙を言づけに来てくれることを知り、そうした大勢の人々に支えられていることに非常に大きな感動を覚え、みるみる身体は回復していった。
そしてその体験が、平尾さんの心に、ある変化をもたらしたのである。

◎音楽には使命がある心の中に棲みつく曲を作りたい

「病気になって介護する側の大変さを知りました。
それからぼくにとって北海道や信州が第2の故郷であるように、人にはそれぞれ“心のふるさと”みたいなものがあるのじゃないか。
だから元気になったら、そのテーマの歌をぜひ書いてみたいとも思ったんです。
それが『私の城下町』や『よこはまたそがれ』へとつながっていったんですね。
すべて療養生活で学び感じたことが、新しいタイプの曲を生み出す原動力となり、他人を思いやる心のゆとりも生み出したのです」。
74年に若い人に歌手への夢を与えたいと、『平尾昌晃ミュージックスクール』を設立し、現在9校を運営。同時に始めた『平尾昌晃プロアマチャリティゴルフトーナメント』も今年で26回を迎える。
また介護専門学校で講演をしたり、チャリティ活動の一環として、国内外の老人ホームや身障者施設の入所者をはじめ、介護者、関係者を招待し、コンサートを開いたりしている。
「最近わかってきたのは、“音楽の使命”というものがあるということ。
キザないい方をすれば、“音楽もひとつの伝道師になれる”ということです。
高齢社会に必要なのは音楽などの娯楽であり、また心を病んでいる若者にも、ゆとりというか一緒に歌ったり演奏するスキンシップが何より大切です。
ぼくは歌謡曲やロックも大事だけれど、だれもの心の中に棲みつける平成の童謡とかわらべ歌をこれから作りたい、作らなければいけないと思ってるんですよ」。