「“内なる重心”を信じ、自然体で生きる」
3児の未婚の母がたくましく生きる自伝的作品『渚と澪と舵』で作家として、また新しいタイプの女性として斬新なデビューを飾った桐島さんは、ルポ『淋しいアメリカ人』で第3回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
その後も数々の話題作を執筆し、子育て後の50歳からは自然体で自分の本質を見つめる“林住期”を宣言。年の3分の1はカナダの大自然の中で晴耕雨読。
心身ともにリラックスした暮らしを愉しみ、常に前向きの生き方を実践されている。
◎50歳からの“林住期”宣言
異国情緒あふれる横浜の緑と潮風がさわやかな桐島さんのマンションは、外国の骨董品店をのぞいている錯覚を覚えるほど、趣味のよい食器類や骨董コレクションで飾られている。
外国では有名人が主催する資金集めパーティーがあるが、この部屋でも時々会費制で手料理つきのパーティーを開いて、余った利益額を開発途上国の子どもたちの育英資金に寄付しているそうだ。
「インドでは人生を四季に例えて、その季節にふさわしい生き方をするんですよ」と静かで魅力的な口調で桐島さんは語ってくれた。
「春は“学生期”、夏は働き盛りの“家住期”、秋はゆとりを楽しむ“林住期”、そして冬が安らかな末期を迎える準備の“遊行期”。
だから林住期は成熟した人生の果実を味わう一番充実した楽しい季節でもあり、さわやかな遊行期を迎えるためのとても大切な時期なのです」。
しかし日本ではとかく家住期にしがみつく人が多く、林住期を楽しむゆとりもなく紅葉しないまま霜枯れするように冬に直行してしまう。
「ですからできるだけ林住期を楽しもうと、私は50歳で“林住期宣言”をしたわけです。ただしこれは仕事をしないというのではなく、林の中でゆったりするような精神の在り方で生きよう、という意味なんです」。
◎“自立した女性”を貫き続けて
桐島さんは祖父が三菱財閥の大御所という裕福な家庭に祝福の中で誕生した。
都立駒場高校を卒業後、『文藝春秋社』に入社。9年後に退社してフリーランスになった。
「うちは大学に行くのが当たり前というインテリの家系でしたが、私は学校の勉強が嫌いで…(笑)。父は上海で新聞社を作り、戦後は明治屋のPR誌の編集をしていました。
母は大変美人でモダンな人でしたが、嫁姑関係で苦労したので結婚に関してはニヒルで、将来は男性に頼らず生きていける職業婦人になりなさいと、子どもの頃からいわれてました」。
その後桐島さんは、会社に内緒でかれんさん(モデル)を、船上でノエルさん(エッセイスト)を出産し、ヴェトナム従軍記者時代にローランドさん(写真家)を妊娠する。
「文藝春秋を退社後にヴェトナムの最前線まで行きましたが、日本と違いアメリカ軍では男女の別なく一人前に扱われ、それが厳しいけれどいい気分でしたね。
銃弾が飛び交う中で“キツネ穴”と称する穴を掘って満点の星を見ながら寝ていると、自分が悠久の宇宙と一体化したように感じられ、人生のひとつの大きな門が開いた経験をしました。
あの“キツネ穴”は私が生涯で住んだ一番小さな住まいでありながら、もっとも大きな住まいでもあったと感じています」。
◎介護は持ち回りで相見互い
「父は母が1カ月懸命に看病した後で、好きなオペラを聴きながら安らかに逝き、また母は晩年、孫たちを愛しながら旅行やコーラスと活発に過ごし、友人と食事の約束をしていた日、部屋の中で発作を起こして亡くなりました。
最期を看取れなかったという悔いはありますが、その分夫(美術鑑定家でエッセイストの勝見洋一氏)の母の看病を経験したり叔母の面倒を看ているので、人生での介護は持ち回りでうまくできているものだと思いますね」。
また桐島さんは高校時代に、仲良し独身主義グループで『足引き会』(柿本人麻呂の歌のもじり)を作り、将来の老人村の構想を練っていたそうだ。
◎海で培ったバランス感覚
「私の一番の才能はリラックスすることで、これは良い林住期を過ごすためにもっとも重要な資質でもあります。
子ども時代に山野を駆け、葉山の海で毎日泳いでいたので、“力を抜く”ことや“自分の身は自分で守る”ことを体で覚え、ちょうど重りがついた起きあがり小法師のように“内なる重心”がインプットされ自然なバランス感覚が育ったんですね。
だからどんなに動揺しても、この“内なる重心”を信じ自然体でいれば大丈夫という自信があります。
現在、50歳以上の女性を対象にカナダのヴァンクーヴァーの自宅で合宿して自然の中で瞑想したり気功をしたりという『林住庵・桐島塾』を時々催しています。
あの世とこの世の仕組みをともに考えながら、大自然の“気”に触れて安心立命という感覚を多くの人に味わってほしいと考えているところです」と今後の構想についても熱く語ってくださった。