井上 順さん 歌手・俳優

2001年09月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時54歳)

「人生は、幸せな出逢いの繰り返し」

かつてのグループサウンズ全盛時代に、『ブルー・コメッツ』と人気を二分したのが、田辺昭知さん率いる『スパイダース』である。
その中でも堺正章さんと並んで井上順さんのコミカルで明るい歌声と笑顔は、テレビを通してお茶の間の人気をさらったものだった。
俳優の仕事がメインになってからも、太陽のようにやさしい温かさは健在だ。
その前向きで謙虚な人柄に触れた人は、誰もが井上さんの持つ天性の魅力に心を癒されるに違いない。

◎16歳で『スパイダース』の人気者に

思わず「順ちゃん」と呼んでしまいそうな程身近な存在に感じられる井上さんは、相変わらず若々しい笑顔で、実に礼儀正しく、丁寧な受け答えをしてくださった。
イギリスから初めて競馬を日本に持ってきた祖父を持つという由緒ある家柄に生まれた井上さんは、外遊びが大好きな元気な少年に育った。
13歳の時に母の知り合いの紹介で“野獣会(別名・六本木族)”の人々と知り合いに。
「当時は、大原麗子さんや峰岸徹さんらがいらして。
皆夢に向かって真剣でしたが、僕は新しい世界を目の当たりに見る歓びの方が強かったですね。
ここでバンドを結成してジャズ喫茶で活動している時に田辺さんに誘われて、16歳で『スパイダース』に参加しました」。
スパイダースではかなり厳しいスパルタ教育を受けたが、グループ7人で一緒にいられるだけで楽しくて仕方がなかったと語り、人気グループになってからも、苦労は当たり前とハード・スケジュールを黙々とこなしていたという。

◎介護で大切なのは心のふれあい

「母は49歳で、父も昨年の夏に他界しましたが、幸い穏やかに召されたため、僕自身に介護の経験はないんです。
でも20歳頃に無理がたたって入院し献身的な介護を受けたことがありまして、それ以降も現在まで、様々な人との出逢いによって“精神的な介護”を受け続けてきたと思っていますね」。
遠藤周作氏の著作に『私のイエス』があるが、「その中に“手当て”という言葉があって、手を当てると苦しんでいる人がホッと安堵するんです。
つまり介護で一番大切なのは、心と心の問題ではないでしょうか」。
そうした意味でも、ヘレン・ケラーとサリバン先生の間柄のように、人と人には魂で通じ合うものがあると実感している、と井上さんは語る。
「僕のコンサートでも目や口が不自由な方は、耳などのほかの感覚器官で感じて楽しんでくれているんですよ」。

◎幸運な巡り合いで俳優の道へ

グループサウンズの全盛期は4、5年で終息し、井上さんの活躍の場もテレビや映画に移っていった。
「とてもラッキーなことに、初めてのドラマは森光子さんとご一緒させていただき、この世界のことをいろいろ教わりました。
今でもセリフをきちんと覚えてくることと時間に遅れないという戒めを、きちんと守っています。
多感な時期だったので、体に染み込んだのでしょうね」と微笑む。
その後も縁が重なって、『ありがとう』シリーズに出演したり、最近では三谷幸喜監督の映画『ラヂオの時間』でも好演と、俳優としての活躍にも磨きがかかる。
「19年間ディナー・ショーを続けてますが、監督がよく来られていて声をかけてくださったんです」。
演じる以上に現場の雰囲気が好きという井上さんは、心の中がモヤモヤした時には窓を開けて大声を出し、すっきりしてからスタジオに入るそうだ。
「僕は、陽の当たる場所が好きなんです。
どんな時も何か新しい出逢いがあるかもしれないと思えます。後輩は包み込むような目で、年長者にはご苦労様という気持ちでいつも臨んでいたいですね」。

◎素晴らしい両親の血が、僕のルーツ

「早くからこの世界に入り両親と暮らす時間が少なかったので、叔母や姉に父母の思い出を聞いてるんですよ。
特に母は朗らかで、友人を大切にするため人望が厚かったそうで、よく親の背中を見て育つというのを、僕の場合は直接その血をもらったというか…。
話している姿や仕草も不思議なほどソックリだそうで、紛れもなく両親の子だと実感しています。
僕は現在独身で子どもはいませんが、もしいたとしても、偉くなるよりまず元気でいることが、親への恩返しだと思いますね。
とにかく素晴らしい親の元にラッキーな生まれ方をしたので、親を超えることは無理でも、与えられたベースをいかに膨らませていくかというのが、今後の生き方だと思っています」。
後進へのアドバイスは、この世界にはいい人がいっぱいいるということ。井上さんらしい含蓄のある言葉だ。常に謙虚に“人と人のつながり”を大切にし、「太陽は誰にでも平等なんです。
自然から勇気をもらうんですよ」と語る井上さんの笑顔にこそ、心洗われる思いがした。