はら たいらさん 漫画家

2003年07月-月刊:介護ジャーナル掲載より

“男の更年期”を前向きに乗り越えてまんが家 はら たいらさん?(当時60歳)

はらさんといえば、本職のまんが家以外に雑学王としての顔を思い浮かべる人も多いだろう。昭和51年から始まった人気テレビ番組『クイズダービー』で毎回驚異的な正解率を誇るはらさんに、ついたあだ名は“宇宙人”。だがこの博識な宇宙人を予期せぬ身体の変調が襲った。男性の更年期だった。当時ほとんど認知度のないこの症状をやがて見事に乗り切るわけだが、そこには子どもの頃から培った、はらさん流の素敵に前向きな生き方があった。

●更年期との未知なる遭遇

はらさんが心身の不調をはっきり自覚したのは、49歳の時だった。眠れない、疲れる、新聞を読んでも内容が頭に入らず、まんがのアイデアも出てこない…。だがどの病院に行ってもただの疲労と診断された。「それが回復したのは、原因が更年期とわかったからなんです。敵の正体見たりということで。あー更年期だったのか、面白いなこれはって気持ちがありましたね。更年期ならいつかは終わると思ったら、すぐに気持ちが前向きになりました」。その後も症状の多少の変動は続いたが、7、8年ですっかり回復した。「何でも前向きにチャレンジしていかなければ損ですよね。更年期とわかってからは、ただ苦しんでいるよりも、反対に自分自身の更年期を取材しようと考えまして。その結果が本にもなったわけです」と語るはらさんの表情は、茶目っ気のある晴れやかさに満ちている。では、この前向きさのルーツとは? 実は、生まれ育った土佐の高知にその答えがあったのだ。

●郷土が育んだ反骨と笑い

はらさんが語るエピソードその1。小学4年生のある日のことである。大の巨人ファンだったはらさんは将来何になりたいかと問われ、“巨人軍の選手”と答えた。するとほかの子らも真似て“巨人、巨人”と口にしたので、いっぺんでアンチ巨人になったというのだ。「高知県人は反骨精神というかヘソ曲がりのところがありますからね(笑)」。エピソードその2。高知県人はふだんから面白いギャグを飛ばしたり冗談話をするそうだ。たとえば大きな魚を釣り逃した時、“クジラくらい大きい魚だった”程度では通用しない。“水面から持ち上げたけどまだ魚の目玉は見えなかった”くらいでないとダメなのだ。「10人で話せば10人全部が違う魚になります。個性的な方が味があって絵にもなりますからね。同時に、これが豊かな発想にも繋がるわけです」。さてここで“絵”という言葉が出てきたが、そもそもまんが家になったきっかけとは?

●個性と実力で売れっ子まんが家に

14歳のはら少年は、ある日近所の神社で落書きをしていた。そのうまさに感心した人に高知のまんがクラブに連れて行かれ、大人の会員をも負かした実力で新聞や雑誌に投稿を始めた。当時も今も、基本は“1コマまんが”だ。「1コマでポーンと表現する方が楽しいですね。それも文章のないのが一番。すると世界中どこへ持っていっても通用するんですよ」。好きなまんが家も師も弟子もいない。「1コマまんがは習いようがないんです。やはり個性ですから。ほかのまんが家ともあまり付き合いはないですね」。18歳で上京し、最初の2年間は高校の後輩だった奥さんに食べさせてもらったそうだが、20歳で連載を持った後は順調に仕事をこなしている。代表作は『モンローちゃん』『ゲバゲバ時評』など。今は、これまた削り方で個性が出る“竹ペン”で描いている。そんなはらさんを理解し支え続けているのは、互いに冗談の飛ばし合いをしているという、にこにこ明るい元気な奥さんだ。

●人生も4コマまんが

はらさんは紙の真ん中に点を描く。「まんがに限らず、ものごとはすべてこの“点”からできているんですよ。点を延ばしていくと線になり、これが絵になります。ここに至るまでにさまざまなアイデアを発想していくんです」。まんがには起承転結で展開する4コマまんががあるが、はらさんは人生もまた4コマだと指摘する。「ぼくは今、人生の2コマ目(承)ですね。これから転で大きく変えなきゃならない時期です」。そのためにも健康第一でなければいけないという。「よく食べて、寝て、運動をする。前向きなチャレンジをするにも、やはり健康が一番ですね。人生には波がたくさんありますが、行き詰まった時は落ちるところまで落ちて、そこからまたはい上がってくればいい。そして、自分の人生を悪いものと思っちゃダメです。いいようにいいようにと考えて、いかにして自分を生き切るかだと思います。そのためにもとにかく健康であること。健康であれば、人生どうにかなるものですよ」。シンプルでありながらも力強いはらさんの言葉に、3コマ目、4コマ目の人生もやわらかな笑顔で迎えていかれる姿が見える気がした。