山野 忠彦さん 樹医

1993年09月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時94歳)

大王杉のように立つ94歳死ぬまで樹の医者でありたい

3歳で、山野家の養子となって朝鮮半島へ渡り、数え21歳で大財産を相続し、放蕩の末、親の財産をつぶす。
土地の売り買いで再び財をなし、自らが住む45万坪の土地に、木を植え、育てたその経験が、引き揚げ後、樹木育成の技術者、指導者としての仕事へとつながる。
弱った木、いたんだ樹木を元気にする「樹医」の名は、自らの創案で名乗った。
現在、行政レベルで樹医制度を取り入れるところも現われている。

◎ただ自然に生きているだけ

約束のホテルのロビーに杖をつき、ひとりで現われた。よく通る大きな声、ツヤのある顔色。
まさしく、スックと立つ老杉のようだ。
「頼まれて、木を見るために、山の登り降りもするんだが、別に元気を誇示しようと、ひとりで歩いてるのではないんだ。自然に歩いてるんですわ。長生きや元気の秘訣も特別にはない。食べものに気をつけたり、運動をしたりなんてことはなく、ただ自然に生きているだけ。長生きしたいと考えたことも全然ないね」ひたすら自然流を強調。樹木も、自然に伸びている姿が理想という。

◎40年間、1300本の樹木を診た

波乱万丈の前半生であった。
戦後、外地に財産を残したまま引き揚げ、大阪府の公園の木を世話する仕事を経て、現在の「樹医」につながる仕事を始めた。
最初に手がけたのは、加賀・粟津温泉の名宿「法師」にある樹齢300〜400年の古杉。
弱っているのを甦らせる方法のひとつとして、樹木に、毎日、注射をした。
珍しがられ、それが新聞で報道されると、真似をする人々が現われた。
「ワシは、水を注射していたのに、彼らは薬剤を注射して、次々と樹木を枯らしていきよった。
木はモノを言わんから、どこが悪いかは、こちらでわかってやらないかん。
そして、どう手をかけるか考えな。
それができんくせに、樹医だ、林業技術者だと名乗ってる奴がたくさんいるんだ」以来、注射法はやめた。
が、45万坪の土地に木を植え、さわりつくした経験から会得した、独特の“山野流”がある。
樹木の年齢も木肌でわかるという。
「学者は、何メートルあるから、何年の木というような割り出し方をするが、ワシは、木の肌を見てやる。シワが多いと年をとってるなとわかる。
細くても随分と古いのがあるからな」山野氏の見立てで、樹齢1500年といわれていた岩手県三陸町の大杉を7500年とした。
なにしろ、屋久島の縄文杉で3500年である。町をあげての大騒動。
この杉は、山野氏により、大王杉と名づけられ、現在、観光の目玉として、一躍脚光を浴びている。

◎とらわれずに、悪は悪という

樹木ひと筋の後半生を送る山野氏。
よく手の入っている木を見ると、「ああ、ええなあ」と心からうれしくなるという。
例えば、皇居前広場の松だ。反対の例は、大阪府浜寺公園の松。
「木に、絶対にしてはいけないことは、水のやりすぎ。老木にそれをすると枯れる。それに、水は動いていなけらばならない。
たまったら、根腐れをおこして、必ず枯れる。浜寺の松は、波が動くことで、地下水も一緒に動いていたから生きていた。
なのに、コンビナートが作られ、しゃ断されてしまった。
行政が悪いのひと言だ」間違ったことへの舌峰は鋭い。悪いことは悪いとはっきりと言う。
これこそ、元気と長寿のもと。
しかしながら、そう言えるのは、大金持ちから無一文と大きく二度も揺れた前半生の経験から、金銭や世俗的なものよりも、自分の気持ちに従って生きることに重きを置いて生きてきたからかもしれない。
依頼があれば、どこへでも出向くが、樹を診た報酬は要求しない。
「別に貧乏を恥ずかしいとか、卑下したりする気持ちがないからね。
どろぼうするよりましだろ。ハハハハハハ・・・」実に軽やかな笑い声であった。