片岡 鶴太郎さん 俳優・書画家

2002年06月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時46歳)

魂の命ずるまま、精一杯生きていきたい

“鶴ちゃん”の愛称で親しまれている片岡鶴太郎さん(本名:荻野繁雄さん)は、あの伝説のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』の中、マッチや小森のおばちゃま等のモノマネで圧倒的な人気をさらっただけでなく、プライベートではボクシングのプロテストにも合格。
現在は数々の賞に輝く個性派役者としての地位を不動にし、さらに絵画や書、陶芸、生け花など幅広い創作活動でも大きな注目を浴びている。
さまざまな可能性にチャレンジし続ける鶴太郎さんの素顔の魅力に迫ってみた。

◎“書画”の創作世界との幸運な出逢い

「実は今日も朝8時からついさっきまで、50号の大作に取り組んでいたんですよ」と物静かな口調で語り始めた鶴太郎さんは、テレビよりもさらにスリムな体つきで、表情もきりりと引き締まって見えた。
95年12月、東京の新宿三越デパートで初の書画展『とんぼのように』を開催して注目を浴び、以来毎年個展を開き今年の6月にはパリにも出展。
ますます創作活動への情熱と評価を高めている。
さぞかし幼少時から絵画に親しんできたのだろうと考えていると、「絵はね、小学校以来描いたことがなかったんです」と当方の先入観をくつがえす意外な言葉が。
「40歳近くまで僕は動的な活動をしてきたので、今後は肉体ではなく精神世界での表現をしてみたいと思ったんです。
漠然とですが、墨をすって絵や書を描ける40男でありたいとのほのかな憧れのようなものもあって…。
そこで近くの文房具屋で一番安い墨と硯を買ってきて、訳もわからないままに描いたのが初めての絵でして。あれは38歳の時でしたね」。
初期には身近な題材として、花や魚や虫をよく描いた。
初の書画展名の由来についても、「僕は虫の中でもとんぼが好きでして。とんぼというのは前へ前へと飛んで、決して後ろに下がらないんですね。
そうした前向きさと、戦国時代の武将も武運を願ってとんぼの衣装をまとったという“勝ち虫”であること。
また古来の日本自体がとんぼを意味する“秋津島”と呼ばれたくらい愛されていた虫なんですよ」とのことで、まさに鶴太郎さん自身の姿勢を象徴するかのような見事なタイトルでもある。
現在も“草津 片岡鶴太郎美術館”と “湘南江の島 片岡鶴太郎美術館”で、鶴太郎さん独自の自由闊達で温かな作品群に出逢える。

◎体と心のぜい肉をボクシングで落とす

東京の日暮里で生まれ育った鶴太郎さんは、幼い頃から芸人に憧れ都立竹台高校演劇部でも活躍したが、競争の激しい劇団ではなく声帯模写の片岡鶴八師匠の門をたたき、その才能で若くして人気者となった。
「でも名前が売れた30過ぎの頃から、身体的なぜい肉と精神的なぜい肉がついたことに気づいて、自己嫌悪に陥ってしまい…。
それでボクシングジムに通うわけですが、要するに自分の人生を芸人だけで終えたくなかったんですね。肩書きではない、ボクサーのようにきちんと自分の肉体や精神を律することのできる人間でありたいとの強い思いから、まず半年かけて筋力を作り、ジムに入って半年後にジュニアバンタム級のライセンスを取得しました」。
当然体重も11キロ落ち、それまでの“鶴ちゃん”のイメージをも削ぎ落とすこととなる。
そして、今後の生き方を視野に入れた仕事の仕方へと変わっていった。
「ボクシングによって鬼塚勝也チャンプなどとの素晴らしい出逢いや、新たにさまざまな役の依頼も来るようになりました。
まず自分の生き方があって役が後から来るわけです。
だから自分の方から変わるしかないですね」。
今でも1時間弱程度のトレーニングを続け、仕事がオフの時にはアトリエで創作活動に没頭しているそうだ。

◎年齢とは精神の力強い積み重ね

「40過ぎて絵を描いて、宗達や光琳など先人の絵に心惹かれ…。
だから歳を重ねるというのは、若い頃とは違う見方やものの考え方ができることなんだなと改めて感じました。
つまり、肉体的なパワーとは反対の精神的なパワーで変わっていくのだ、と。
人間最後には必ず死があるわけですから、それまで精一杯生かしていただいていることの意味と感謝を忘れず、それを常に感じながら生きていきたいなと思っています。
仏陀でさえ野で最後を迎えているので、僕もそうなってもいいと。死というのは哀しみとかを超越したもので、そこからまた何か新しいものが生まれ出る気がしますね」。
何をやりたいのかという思いは自らの魂から自然に出てくる本能的なもので、今後もその方向に従って躊躇せずに行くだけ、と自然体で語る鶴太郎さん。
精神的なパワーが人生の質を遥かまで高め、年齢という時間の枠を鮮やかに打ち破る素晴らしい夢を見た思いがした。