ワインも人生も、自由に楽しんで
女性に人気のお酒といえば、まずワイン。最近はソムリエ志望の若い女性も増えてきた。そんなワインの魅力を日本に広めたひとりが、田崎さんである。
若くして日本および世界のソムリエの頂点に立ち、ヨーロッパの洗練された食文化の香りと楽しみを伝え続けている。
おしゃれでテディベアが大好きな田崎さんだが、甘いマスクでありながら辛口の優れた文明批評家でもある。さあ、田崎真也ワインサロンでの美味しいひとときを、ご一緒にどうぞ。
◎ワインをめぐるQ&A
バブル時代のいささか度を超した“ブーム”の後、家庭でも気軽にワインを楽しむ機会が増えてきた。それでも正面きってワインときくと、つい身構えてしまうことも。
だがワインに対するそんな不安や思い込みを、田崎さんはいとも明快に打ち砕いてくれた。そうした一問一答をご紹介しよう。
—ワインは本当に日本に定着した?「日本でのお酒を飲む習慣はヨーロッパと違い、飲むことが先で食べ物が後なんですが、ようやくお酒を食事とともに楽しむという考え方に変わってきました。
定着云々以前に、ワインは食事とともにあるものなのです」。
—日本人の食に対する意識は?「明治時代には多くの洋風文化が花開きましたが、戦後の栄養第一の学校給食によって日本の食に対する考えは封建的になってしまったと思うんです。
だから食べ物が豊富になっても、依然としてクリエイティブでない。ただ、その流れも変わりつつありますが…」。
—ワインと値段の関係は?「値段=おいしさではなく、個々の予算内でどう楽しむかというのが第一です。
安い物であれ高級品であれ、本人が満足ならば他人にとやかくいわれる筋合いではないと思いますよ」。
—日本食とワインは合わない?「そういう人たちに限ってわざとワインに合わない、塩辛とか明太子の類いしか挙げてきません。
つまり固定観念しかないわけで…。自分で試したり食べたりせずうんちくを語る人が多いのが、日本の特色かもしれませんね」。
◎多様な興味の芽が、やがて花開いて
レストランでのサービスの仕事に惹かれた田崎さんは弱冠19歳でフランスに渡るが、それまでの経歴も興味深い。
昆虫博士を夢見た少年時代、やがて魚に興味は移り、全日本磯釣連盟に入会するため年を3つもサバよみ、10年間それで通した。年齢を高めにごまかしたのは、漫画家の手塚治虫さんと田崎さんくらいのものだろう。
その後も海員、日本料理の板前、西洋料理のコック、レストランのサービスと興味の方向は徐々に変わり、フランスでの生活を通過することで、ついにソムリエという天賦の才能を開花させることになったのだ。
そうした過去のいくつもの岐路について田崎さんは、「嫌なことを避けるというより、新たに興味が出てきた方を優先させたんです。
日本では“石の上にも三年”のように継続は美徳とされていますが、興味を失ったものを続けていても無駄だと思います」と、きっぱりといい切る。
「必要な知識を吸収する際にも、目的がはっきりしているから高級なレストランにも行くし、この仕事に就きたいという思いがあるからそれに合った学校に進む。これが本来のあり方ですが、日本では進学自体が目的になり、通過点(プロセス)ではなくなっているように思います」。
◎自由に楽しめるよう、アシストを
ソムリエについて、日本ソムリエ協会は「レストラン等で売る、ワインを主軸にした飲物の仕入れ、および保管管理、食卓で供される料理とワインの組合わせ、販売サービスなどワインに関する一切の業務を担当する人」と定義している。
この国内の第3回ソムリエコンクールで、田崎さんは優勝の栄冠に輝いた。まだ25歳だった。
そして第8回世界最優秀ソムリエコンクールではついに優勝し(1995年)、“世界のタサキ”の名を知らしめたのである。
田崎さんはいう。「僕はワインがたくさん飲まれればそれでいいとは思ってないんです。ワインの販売を伸ばすことが仕事ではなく、食事を楽しむにはどうしたらいいかという部分で、僕らは初めてお金をもらえるわけですから。
日常の食事の中で、今日はビールにしよう、日本酒にしようといったアイテムのひとつにワインが加わり始め、ようやくスタート地点に立ったと。
これはすべての事についていえると思います」。
今後の目標については、「この50年くらいでようやく日本でも『食事は楽しむ方がいい』という感覚になってきたので、それがもっと広がるように、提案ではなくアシストしていきたいですね。パターンをいくつか示して、こんなこともやってもいいんだと固定観念を崩していくことから始めて…。誰もがもっとワインを自由自在に楽しめるように活動していきたいですね」。
そう語る田崎さんの目は楽しげに輝やいていた。