谷口 浩美さん マラソンコーチ、元マラソン選手

2003年02月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時42歳)

マラソンは自己表現の場

昨今は高橋尚子選手らのめざましい活躍で女子マラソンへの期待が高まる一方だが、男子唯一の金メダリスト・谷口選手の偉業も日本陸上界の歴史にさん然と輝いている。
ことに92年のバルセロナ五輪での転倒場面では日本中が息をのんだが、「こけちゃいました」の明るい一言が重い空気を吹き飛ばし、大きな感動を呼んだ。数々のドラマを生みマラソンに賭けた男、谷口さんの意外な素顔と今後の抱負についてご紹介する。

◎バルセロナ五輪“転倒”の秘話

試合当日、金メダルへの期待を背に先頭集団で快調に走っていた谷口さんは、22.5キロの給水所で後続選手に左足を踏まれて転倒した。
「実は1991年の第3回世界選手権東京大会において、日本の大会が高温・多湿だったため水を摂る必要性を各国選手も痛感し、バルセロナでは最初からみんなが、水、水と気にしていたんです。
ところが先頭集団が多かったため給水所に気づかなかった選手もいたんですね。
大体時速18、19キロで走っていましたが、慌てて水を取ろうと割り込んできたその選手はもう頭の中が水のことでいっぱいだったもので、他人への配慮を忘れて足を出してしまい、僕の左足のかかとを踏んでしまった。
で、僕はちょうど左足をあげるタイミングだったもので、必然的に転倒してしまったわけです」。
この突然のハプニングにもかかわらず、谷口さんは見事8位に入賞。ゴール後、淡々としたさわやかな笑顔で「こけちゃいました」と語った。
「あのシーンは国際映像の配給でして、僕はただ転倒して靴も脱げた事実をいっただけなのに、翌日帰国したら大きな話題になっていたのでビックリしました。
でもこうしたマスコミ中継のおかげでマラソン人気も高まってきたので、その点では、僕にとって“転倒”もプラスだったかもしれませんね(笑)」。

◎引っ込み思案の少年がエースへ

宮崎県生まれの谷口さんは往復6キロかけて小学校に通った。
こうした環境も足腰の鍛錬に役立ったといえる。
さぞや活発な少年だったと思いきや、「中学まではずいぶんと消極的で、外へ出るのが好きでなかったんです。
日曜などは1日中パジャマ姿で過ごしてまして」という意外な一面も。
そんな谷口少年に転機が訪れたのは、高校入学後のことだった。
走りたい、体育の先生になりたいとの夢を抱いた谷口さんは、両親の応援も受けて、地元から離れた小林高校に進んだ。
それ以来合宿生活が始まり、3年で駅伝部の主将になった。監督の先生から「役が人を育てるから」といわれたのである。
これについて谷口さんは述懐する。
「その時はピンと来なかったのですが、振り返ってみると、高2で全国高校駅伝に優勝し2連覇ということで取材が来て、主将である僕もしゃべらざるを得なくなったんですね。
それゆえチーム全体を考えるようになり、主将という役の責任上、先生の言葉通り僕自身も変わっていったわけです」。
やがて日体大に入り、箱根駅伝では下り6区の芦ノ湖〜箱根湯本で区間新記録を出した。
こうして着実に段階を踏みながら、旭化成に入社後はマラソン界のエースとして次々に優勝を飾り、91年の世界選手権(東京)では日本人初の金メダルを獲得したのである。
そんな谷口さんも高校から大学時代は成長期や過激な運動量、食生活が原因で貧血に悩んだという。
貧血の克服後も大事な試合の前には検査をしてベストの体調を心がけている。
「規則正しい生活と十分な睡眠が大切ですね」。

◎夢、目標そして素直に生きること

現在は沖電気陸上部助監督として選手の育成にあたり、各地の“走ろう会”などにも参加しているが、70歳になってもニコニコと楽しそうに走る人がいっぱいおられるそうだ。
「そうした方々は40代〜50代から始めたわけで、逆に僕たちは早い時期に始めているので、高齢まで現役の選手はほんの少しです。
ですから歳を取った時も同世代の中でチャンピオンでいられるかどうかは未知数であり、難しいと思うんですよ」。
だからこそ、将来も“勝てる自分”がいるかの夢と目標を持ち続けたいと谷口さんは抱負を語る。
「“走ろう会”で一緒に走ってぼくより先にゴールを踏むと、『やったぁ、谷口に勝った!』と大喜びされるんですね。それも走る生きがいだと思います」。
現役時代は応援してもらい、引退後は健康作り大会などでお互いに元気を分かち合う。
「僕らのように長くマラソンをやっていると頑固な部分も出てくるし、逆に頑固でないと強くなれません。だから自分の意思で素直に生きることが必要だと感じています」。
走る魅力のひとつはシューズさえあれば誰でも気軽にでき、歩いたり家の中で動くよう工夫することでも年齢にかかわらず楽しみながら健康促進ができる点だ。
谷口さんらの活躍に刺激を受け、今後もますますマラソン人口が増えていくことだろう。