桂 由美さん ブライダルファッションデザイナー

2004年03月-月刊:介護ジャーナル掲載より(2004年時点)

ブライダルこそ最高の舞台

ブライダル(花嫁の…)という言葉をすっかり日本に定着させた桂さんは、その稀有な感性と行動力で、世界中のウェディングシーンに驚きとロマンを吹き込んでいる。
ユニークなターバンはプライドと情熱、白亜のブライダルハウス(乃木坂)は理想と美。ブライダルデザイナーのパイオニアとして今年で40年、ウェディングプロデューサーとしての手腕もいかんなく発揮している。数多くの花嫁たちを見続けてきた桂さんの足跡を追った。

◎演劇少女、ブライダルに出会う

青春期には誰もが、現実にはない夢を追い求めるものだ。演劇をこよなく愛する少女も、文学座の第1回公募に応募した。母は東京文化デザイン専門学校の創立者。
「喧嘩になりましたね。経営者の跡継ぎにするために大学に入れたわけですから。
そこで母が、私たちのリーダー格の芥川比呂志さんに相談に行ったんです。
すると芥川さんは『新劇の世界で今必要なのはインテリジェンス、知性です。ましてプロデュース志望なら、卒業してから来てください』と。
私の才能の限界を見極めて芥川さんがそう言ったのか、いまだにわからないんですが」と桂さんは笑う。
当時のファッション界はデザインよりも縫って作るのが主で、お裁縫が大の苦手の桂さんは、なおさら母と同じ仕事に反発を感じていたのだろう。
しかしパリに留学して縫う以外の道があることを知り、次第にファッション界の魅力に惹かれ始め、母の手伝いをするようになった。
帰国後、卒業制作のウェディングドレスを作ろうと生地を探しに行ったところ、「びっくりしました。オールナッシング。
何もない。ドレスに必要な生地も、アクセサリーも靴もない状態」で、そのとき生徒が「先生、もしウェディングの専門家がひとりいたら、ずいぶん皆も助かるでしょうね」ともらした言葉がきっかけで、ブライダルの世界に足を踏み入れることになった。

◎3%の壁を乗り越えユミラインを作る

1964年に、日本で初めてのブライダル専門店を開く。東京オリンピックの年だった。ウェディングドレスで挙式する割合を調べると、わずかに3%。その人たちのドレスの購入先は有名デザイナーの店かデパートのオーダー部で、写真で注文、値段はサラリー半年分、仕上がりは4、5カ月先という状態だった。
「前年に欧米を回り、どの程度の値段でどういう買い方をしているのかを調査して、先進国はどこでも1カ月のサラリー程度で既製服のウェディングドレスを買っていることがわかりました。
だから私はオートクチュールでなく、プレタポルテ(高級既製服)で売れる時代を目指したわけですね」と桂さん。
そして81年、ジェトロ(日本貿易振興会)主催のジャパン・ファッション・フェアがニューヨークで開かれ、ショーのために新しいスレンダーラインを完成させた。これが有名な“ユミライン”である。
「ウェディングドレスは後姿が重要なんですよ。式の間、参列者は後姿だけ見ているわけね。
それでスレンダーだけど後ろが華やかな、着物の“お引きずり”を意識しました。
また服装の歴史の繰り返しの中で、ビッグラインの後には必ずスレンダーがくるんです。
ただこの年はダイアナ妃の結婚式があって、4、5年遅れで流行しましたが」

◎すべてのアイデアはスタートにあった

かつて3%だったドレス挙式も10年後は13%に増え、今では99%に。だがその道のりには、先駆者ゆえの様々な軋轢があった。
「着物は着付けに時間がかかるので、先に着物で後がドレスというスタイルは、この業界の利益のためです。もし後から着物を着なかったら、ヨーロッパのように民族衣装がなくなってしまう。
そこで改良着物を作ったら、美容界が猛反発しましてね。メンズもタキシードとモーニングしかなかったのを、うちが燕尾服のレンタルを始めて…。
紋服もそう。業界の反対の中で、ファッション化こそ日本の伝統である着物の生き残る道と思って努力してきたんです」
しかし、そうした逆風をもばねにしながら、桂さんは常に未来を見すえて、斬新な作品を発表し続けている。その時代を先取りした豊かなイメージは、どのように生み出されるのだろうか。
桂さんは言う、「それには私が演劇をやったことが、すごく活きていると思います。
今はオリジナル・ウェディングの時代。ワンパターンでなく、“自分流になる”ということ。シビルウェディングも含めて、こうしたアイデアは全部36年前に出版した『ブライダルブック』(文化出版局、1968年)の中に既に書いてあって、これまでの40年間で、それらを実現してきたのです」
子育ても家庭も仕事も上手に両立させるのが21世紀の理想の女性像、と熱いエールを送る桂さんは、これからも世界中の花嫁たちに夢とロマンを与え続けていくに違いない。