日本よ、スポーツ文化でも金メダルを目指せ!
8月13日から第28回オリンピックがアテネで開かれる。オリンピック生誕の地での開催は実に108年ぶりで、日本選手の活躍も大いに期待されている。
スポーツを志す者なら誰もがあこがれるこのオリンピックに4度も出場し、しかも13個という日本最多のメダルを獲得したのが、体操の小野喬選手である。
かつてのオリンピックでの秘話やアテネ大会への期待、そして地域スポーツクラブの普及と指導者育成にかける思いを語っていただいた。
◎救急車に電気針! 根性で勝ち取った五輪メダル
秋田県生まれ。大学3年の1952年、ヘルシンキ五輪に初出場した。
「当時の日本は外貨不足のため8人中5人しか選手を連れて行けず、だから1人でも棄権したら、団体総合に出られない状態でした。僕は初めて飛行機に乗って急性蓄膿症にかかり、途中のストックホルムで救急車で病院に運ばれたんですよ。ヘルシンキ大会には鼻に綿をつめながら臨みました」と、微笑しながら当時を振り返る。
苦労のかいあって、跳馬で3位を獲得した。続くメルボルン五輪(56年)では、鉄棒でひねり飛び越しという新技を披露し、日本体操界で初の金メダルに輝いた。3回目はローマ五輪(60年)。打倒ソ連を合言葉に、団体総合で優勝。小野さん自身も鉄棒と跳馬で優勝し、合わせて3つの金メダルを獲得した。そして64年の東京五輪では、日本選手団の主将として選手宣誓をした。33歳だった。
「ところが右肩を痛めましてね。麻酔を打ったら効きすぎて感覚がなくなったので、電気針に変えて最後まで試合をやり遂げました」
東京では、ローマに続いて団体総合で2連勝を果たした。「いま振り返ると、4回も続けてよく出たなと。特に東京オリンピックで最後までやり通せたことが感慨深いですね」と、うなずく。
当時に比べて選手の技の難易度も高くなり、用具の性能もバネや弾力性がずいぶん向上したそうだ。またこの頃から“山下跳び”や“ムーンサルト(月面宙返り)”のように、ウルトラCの難技には名前がつくようになった。
◎日本で地域スポーツクラブを立ち上げる
本競技スポーツの宿命として、常に怪我との闘いがある。
「ええ、過酷ですよ。歳をとってからいろいろ支障が出てくるんじゃないかって。それをカバーするのがリハビリですね」
つまり怪我をしやすい競技だからこそ、練習や試合で痛めた部分は逆に筋肉をつけてカバーする。怪我の予防のための運動である。「その延長で、お年寄りにどうサポートするかを、いま勉強しながら教えているところなんです」
実は海外に遠征するたび、小野さんはスポーツに対する考え方が欧米と日本とでは大きく違うことを感じていた。日本のスポーツは大学の運動部や実業団が中心のいわゆる競技スポーツが主で、一般人は学校を卒業するとスポーツとは縁遠くなってしまう。対してヨーロッパの場合は地域にスポーツクラブがあり、幼児から高齢者まで自分に合った運動を日常的に楽しんでいる。
これではいけない。日本も地域スポーツを育成していかなければ! こうした思いのもとに昭和40年5月、“池上スポーツ普及クラブ”を立ち上げた。熱意は実を結び、クラブで育った子供たちの中からオリンピック選手が出てくるまでになった。
小野さんは言う。「東京オリンピックから40年、ようやくジュニア育成の流れが出てきたかなと。しかしヨーロッパのクラブは200年以上の歴史がありますから、近づくにはまだまだ努力が必要ですね」
◎介護予防運動でいつまでも元気に
ジュニアの育成と同時に、中高年のスポーツも日本でもっともっと指導していかなければならない。そうでないと高齢化社会の中で、さらに要介護者が増加していくと小野さんは懸念する。
文部科学省でも平成7年度から総合型地域スポーツクラブの育成助成を行っているが、クラブ運営のためには優れた指導者が必要不可欠であり、現在この指導者育成に携わっているのが小野さんらの“財団法人日本スポーツクラブ協会”である。
「年齢に応じた介護予防の身体運動を指導できる人材。その養成が我々の狙いなんです」と言う。「こうした介護予防についても、ただ行政に頼るだけでなく、自分たちでお金を出して健全で持続性のある生涯スポーツを作っていかなければ。それにはスポーツに対する意識改革が必要ですね」
さてアテネ・オリンピック開幕も秒読み。日本中の期待と興奮も高まる一方だが、栄光の五輪最多メダリストの予想は?
「特に女子選手は期待が持てます。柔道、水泳、レスリング、ヨット、ソフトボールはメダル候補です。それと野球、サッカー。体操もクラブで育った選手たちの活躍が楽しみですね。こうした選手だけでなく、誰もが欧米の人々のように小さい頃からスポーツクラブに通って、自分のからだは自分で守り、何歳になっても元気でいられるようになってほしいと心から願っています」