中山 律子さん (社)日本プロボウリング協会会長

2004年11月-月刊:介護ジャーナル掲載より(当時62歳)

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1969年に誕生した女子プロボウラーの1期生であり、70年代初めのボウリングブームの中心的存在だった中山律子さん。女子プロ初のパーフェクトゲームを達成し、日本のボウリングファンを驚かせた。また、シャンプーのTVCMで一躍、時の人となり、そのキャッチコピー「さわやか律子さん」は、今でも語り継がれているほどだ。
今年、社団法人日本プロボウリング協会の会長に就任した中山さんに、その意気込みなどについて語っていただいた。

◎空前のブームの中心的存在

1970年8月。東京・府中スターレーンで行われた公式戦で、中山さんは見事、女子プロボウリング史上初のパーフェクトゲームを達成した。
その前年の69年に女子プロ第1期生である13名が誕生したばかりのできごとだ。中山さんを始め、須田開代子さん、石井利枝さん、並木恵美子さんなどがとくに注目を浴びていた。
中でも、中山さんのライバルだといわれていた須田さんにいたってはパーフェクトゲームの後、公式戦6連勝を記録。
レーンで繰り広げられる女同士の熱い戦い、そして感動的な記録の達成。ドラマチックなボウリングの世界は大衆を魅了し、60年後半から70年代初頭にかけて空前のボウリングブームが巻き起こった。
71年、「さわやか律子さん」のキャッチコピーで、中山さんがシャンプーのテレビCMに登場したこともブームに拍車をかけた。ボウリングブームを支えてきた人物といわれる所以だ。
「たまたまそういう時代だっただけで、支えてきたというわけではありませんよ。
須田さんや並木さんなど、いいキャラクターが揃っていましたし、まだ日本ではプロボウリングトーナメントの草創期で、新鮮味がありました。
プレイヤーも観客も、新鮮な気持ちで見れていたんだと思います」と当時を振り返る中山さん。睡眠時間が4時間程度しかないほどの人気者になり、負担も大きかったと思うが、生来の「楽天家」で、そんなムチャなスケジュールのなかでも、おおいに楽しんでいたという。
一方で、並々ならぬ「努力の人」でもある。
1968年に鹿児島から上京した中山さんは、東京タワーボウリングセンターに所属、猛練習を続けた。毎日20ゲームの投げ込み、そして、東京タワーの大展望台に続く590段の階段を3往復していたというのだ。しかし、そんな努力も、「苦」とはとらえず、そのときどきでやるべきことをやってきただけ、といった感覚でしかない。楽天的ななかにも、芯の強さを感じさせる女性だ。

◎ブームの下火・結婚・出産

中山さんをアイドル並に多忙にしたボウリングブームだったが、そう長くは続かなかった。オイルショックの影響もあり、70年代中盤から徐々にブームが下降していく。
「私は73年に結婚、78年に長女の出産と、ちょうど私生活がめまぐるしく変化していた時期で、ボウリングから離れていたんです。今から思えば、ボウリング業界に対して申し訳なかったな、と思っています」
プロトーナメント数も激減し、賞金総額もピーク時(94年)の3億1000万円に対し、昨年は1億5000万円になっている。
ボウリング界に活気を呼び戻したいと、日本プロボウリング協会では、今年、中山さんを会長に抜擢。女性では初の会長となる。
「やりたいことはたくさんありますし、2年間という任期でどのくらいできるのかわかりません。でも、少しずつ新しい風を吹き込んでいきたいですね。たとえば、ゴルフのトーナメントのように、トーナメント前にプロアマ戦を行なうなどして、スポンサーの方たちと交流する機会を増やしていきたいと思っています」
また、高齢社会にあって、シニア層に対してもボウリングを強く薦めている。
「年齢を重ねるとどうしても身体が硬くなる。動かさずにいると、どんどん硬くなってしまいます。楽しみながら身体を動かすにはボウリングがおすすめ。1フレームで2回投げて次の番まで休むというリズムが身体に負担をかけず、ちょうどいいんですよ。ですから、2〜3人で一緒に行くなどして、遠慮せずにボウリング場の方に教えてもらったらいいと思うんです。軽いボールもありますしね」
シニア層の間で健康維持のためのボウリングが浸透すれば、ボウリング界も活性化するだろう。
ブーム復活を目指してはいるが、一過性のブームに終わらせてはならない、という意気込みも伝わってくる。会長という肩書きにプレッシャーを感じつつも、「なるようにしかならない」と、肩肘はらずに新境地へと挑んでいく。その姿は、「さわやか律子さん」そのものだ。
中山さんがつくり出す「さわやかな風」が、ボウリング界を再び元気にしてくれることを期待したい。