「歌手生活35周年を迎え、日本の心・演歌に磨きがかかる」
「サブちゃん !!」と客席の熟女たちから熱い声援がかかる。舞台はいつも超満員。そんな北島三郎さんにも歌手への道を目指して演歌師をやっていた下積み時代があった。「函館の女」は大ヒットして100万枚売れ、その後はトントン拍子、演歌の王御所として君臨している。後輩たちの面倒見も実によく、皆から「オヤジ」と慕われているその人柄が、今日の座を築いたのだろう。
●女房には一生頭が上がりませんねぇ
歌手になって今まで吹き込んだ歌が、約350曲になる。ヒットした曲もあれば、埋もれてしまった歌もあるが、中でもデビュー曲の「なみだ船」や、NHK紅白歌合戦に初出場した時の「ギター仁義」、大ヒットした「函館の女」などは思い出深い。しかし、ここまでの道のりは決して楽ではなかった。歌手を目指してはいたものの生活のために「演歌師」をやっていた時期が、6年もある。「一口に6年というけど、今思っても長い年月でしたよ。何度かくじけそうにもなりました。でも、いつも陰になり日向になって励ましてくれたのは、やはり女房でしたね。未だに口では言ったこともありませんが、女房には心の中で感謝しています」と実感がこもった言葉だ。北島さんがまだ無名の演歌師の頃、ミカン箱の上でギター片手に歌っていた北島さんに向かって、「イヨッ!サブちゃん!」と威勢良く声をかけたのが奥さんだった——というエピソードを聞いたことがある。本人の素質はもちろん、加えて努力も必要だが、側で精神的に支えてくれた奥さんの存在は確かに大きい。歌手になるチャンスを待っている時によい出会いがあり、道が開けた。座右の銘は「人との出会いを大切に」。だから大成してからは後輩達を親身になって世話してきた。もともとが親分肌だったのだろう。チャリティのゴルフ大会を主催しても大勢の人が「オヤジ」のもとに集まり、今では皆が「オヤジ」を気遣っているようだ。
●田舎の父には百歳まで生きてもらいたいなぁ
11年前に東京の八王子に、後に「北島御殿」と呼ばれる新居を建てた。北海道の両親を呼び寄せようと、特注の部屋を作った。が、その年母親は69歳でその部屋を見ることもなく、他界してしまった。今年85歳を迎えた父親も、何回か泊まりに上京しただけで、田舎で暮らしている。「親には親の生活がありますから、子供や廻りがあまりに気を使いすぎてもいけないのでしょう。ただ父には百歳でも二百歳でも生き続けて欲しいと思っていますよ」としみじみ語る。人一倍親や祖先を大切にする北島さんは、毎年必ずお盆には田舎に帰省する。母親や祖先への感謝と、父親を励ますためだ。お年寄りには健康であれ、病弱であれ長生きしてもらいたい。「お年寄りにできるだけ心配しないで生きてもらえるように努力するのが、元気な私達の当然の義務でしょう」父親に希望があれば、できるだけそれに添うよう心がけたい。親の本当の喜びは、物やお金ではなく、いつもやさしく見守ってくれる環境だと信じている。作品を与えられたときに、歌詞を読むとまず絵や風景が浮かぶそうだが、それはふる里の山並みや川、育った古い学校、そして父や母の働く姿と重なる。演歌は人生や生活に密着したテーマが多く、それを表現するにはある程度、年齢も必要だと感じている。いろんな意味での人生の苦難を乗り切ってこそ、歌も表現できるし、人の心を打つことができるのだと。来年は歌手生活35周年を迎え、全国ツアーの予定だ。「身体の続く限り、日本の歌・演歌を歌い続けていきます」ときっぱり言いきる。