梅原猛さん(当時:国際日本文化研究センター所長)

1994年06月-月刊:介護ジャーナル掲載より

「永遠の命の中で自分の人生考える。老人は生まれ変わる前の準備のとき」

梅原日本学とでもいうべき、独自の分野を確立した梅原猛氏(当時69歳)。わが国の知性を代表する梅原氏のたどり来し道と、その生活スタンス、そして必ずややって来る老いと死についてうかがった。

生い立ちが与えた弱者・敗者の視点

大正14年3月にこの世に生を受け、知多半島の内海町で少年時代を送った梅原氏。実の父親の兄夫婦に養育されるという生い立ち、出生への懐疑が、中学4年にして、突如学青年に変身させ、やがて、哲学への道を歩ませたという。京都大学文学部哲学科で学び、卒業後、龍谷大学講師、立命館大学教授をつとめ、昭和44年、学園紛争の解決方法について、大学当局と意見が対立して立命館大学を退職。3年間の浪人生活を送った。この浪人時代に生まれたのが、法隆寺論「隠された十字架」や柿本人麿論「水底の歌」など、ベストセラー書となった梅原古代学。「お金については、何の不自由もないけれど、心に大きな傷をもたねばならない環境で育ったでしょ。それに、中学で一度、高等学校で二度、受験に失敗したことは、人生をいつも特権者の立場から見ずに、どちらかといえば、弱者、敗者の立場から見る目を私に与えてくれたのではないかと思うんです。こうした視点があったからこそ、これらの本も生まれたんです」法隆寺は聖徳太子の鎮魂の寺である、また、柿本人麿は流罪刑死の人であるとすることから、それぞれの謎を解いた。

人格を変えてくれた芸大。乱世に場所

昭和47年、浪人生活を清算し、京都市立芸術大学美術学部の教授となる。「14年間、この大学に勤めましたが、多くの芸術家の友人を得たのが、一生の宝ですね。そして、それ以上に感謝しなければならないのは、芸大が私の人格を変えてくれたことです」勤めて間もなく、大学移転問題が起こり、その地の不適切さに、反対の立場をとり、市当局と対立。市当局と大学の間に挟まった学長などが辞職し、思いがけず学長に選ばれてしまう。新しい候補地を探し、そこに大学を移転させる仕事だ。「そうするには、どうしても私の人格を改造せねばならぬと思ったんです。孤独でわがままな一匹狼を、他人の気持ちが分かり、組織の運命を自分の運命とするような責任ある指導者に変えねばならないとね…」奮闘努力の末、移転は成功。この間、画家三橋節子のことを書いた「湖の伝説」を発表。学長を辞め、60歳を過ぎて市川猿之助のために書いた戯曲「ヤマトタケル」が大当たりをとり、戯曲作家としての道も歩き始める。芸大で獲得した新たな人格で、昭和62年、日本研究の拠点として、国立の国際日本文化研究センターを創設、来年5月までの任期の所長をつとめる。「あまりに任期が短すぎるという人もありますが、しょせん私は、創設とか乱世に向いている人間なんです。乱世の人間にはまたそれにふさわしい仕事があるかもしれないと思ってるんです」

いまだ仕事は3分の1。21世紀の哲学を!

一昨年、文化功労者の顕彰を受けた。その祝賀会で「欲が深すぎるけど、まだ私の仕事は、3分の1を果たしたにすぎない」と言った梅原氏。「これまで70歳近くまで生きてきて、人間の心の貧しさを超えてゆく新しい世界像、そういう哲学をつくりたいという気持ちなんです」そしてその死世観は、自我を絶対とする現代文明を否定し、永遠の命の中で自分の人生を考えることが大切と説く。「かっての日本人は、死というものは、この世に別れを告げて、ご先祖さんの待つあの世に行くことで、あの世ではこの世と同じような生活をすると、死後の世界を信じていました。そして、あの世から生まれ変わってまた帰ってくると…。この世で終わりだという近代人の考えは誤りだと思うんです。生命は終わりのはずがないというのは、遺伝子があるからです。親の遺伝子が子孫に受け継がれていくわけだから、遺伝子は不死です。そう考えれば、老人というのは、生まれかわる前の準備のときだから、今、子や孫にあんまり迷惑をかけないようにする。あの世に行って、孫の孫となって戻ってきたとき、この世の子孫が迷惑をかけられたことを憶えていて、冷たくされるに違いない、ーと昔の人の考え方に戻らなきゃいけないんです」あの世はあって、命は永遠に循環する。そう信じるところに、幸福があるということだ。